2022年3月31日木曜日

専誉僧正

専誉僧正


生まれ:1530年(慶長

没年:1604年(

74歳

生まれた場所:和泉国大鳥郡(現在、堺市)

姓:石垣氏

生まれつき温和で考え深く、その性格を見抜いた父に伴われて9歳の時に根来寺に入山

妙音院(小池坊)の弟子となる。

倦きることなく、学問に専念する。

25歳から南部で唯識・華厳を学ぶ。

40歳の時、三井寺・比叡山で天台を修める。

醍醐で中性院流を受けて、根来に帰る。

妙音院頼玄に抜擢され協能化(?)となる。

小池坊で講義を開始。

     専誉が根来寺に戻った時、根来寺は所領七十万石、僧侶6000人の学山、

     さらに強力な僧兵が多数いた。

天正12年(1584年)能化となる。(頼玄から譲られる)

天正13年(1585年) 戦火に罹ると高野山に逃れる。

          さらに醍醐、和泉国分へと移る。

天正15年(1586年)長谷寺に入る。(大和の豊山)

         (大和国守 豊臣秀長(羽柴秀長)に請われて)




天下統一をはかる羽柴秀吉は、それら僧兵たちを擁する根来寺に降服を勧めた。しかし根来寺は、これに応じなかったために攻撃され、二千七百余の堂塔は一夜にして跡形もない状態になる。学頭の専誉は多くの学徒を率いて高野山に逃れ、また京の醍醐寺に身を寄せて講義を続けたが、やがて泉州国分寺に隠棲した。 

 当時の長谷寺は観音霊場として天下に知られた名刹だったが、荒廃していたため、大和の太守、大納言豊臣秀長は高徳の僧をむかえて長谷寺の興隆をはかろうと考えていた。こうして白羽の矢をたてられた専誉が入山すると、学徳を慕う学僧たちが全国から集まり、根来寺に栄えた真言の教学は長谷寺に再興されたのであった。また、入山に際し専誉は今まで長谷寺を支えてきた人達に対しても非常に心遣いをしたという。学問的にも人間的にも優れていた専誉の入山により、長谷寺は栄えていったのだ。


当時長谷寺は興福寺末の法相宗の寺となっていたが,専誉は住坊を根来妙音院にちなんで小池坊中性院と名づけ,秀長の助けによって大いに堂宇を整備して講義を再開,全国より学徒が参集した。さらに豊臣秀吉,徳川家康の信頼を得て寺領とその安全を保障され,以後,豊山は学問の中心地として長く栄えることになった。<参考文献>隆慶編『豊山伝通記』中

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