2022年11月5日土曜日

富士山 北口本宮冨士浅間神社

                北口本宮冨士浅間神社


日本武尊がこの丘から富士山を御遥拝されました。
祀りを建てて祀られたことから北口本宮発祥の地となった。

日本武尊
御所市

第12代景行天皇は熊襲(くまそ)の反乱を平定するため、自ら九州へ赴き転戦しました。
(景行天皇=垂仁天皇の第3子)
数年後、再び熊襲が反乱を起こしたため、息子である16さいの小碓尊(おうすのみこと)
を西国に派遣しました。
熊襲国(くまそのくに)に着いた小碓尊は童女の姿に変装し、
熊襲の首長の川上梟師(かわかみたける)の酒豪の群れに紛れ込むことに成功
酔いがまわったところで、川上梟師の胸を刺しました。
川上梟師はまだ、息が絶えないうちに
「私はあなたのような強い方にはお会いしたことはありません。」
「これより、皇子を日本武尊(やまとたけるのみこと)と名付け、称えましょう。」
日本武尊の名前の由来です。

無事に熊襲の反乱を平定した日本武尊は天皇に報告し、天皇はその功績を褒めたたえ
日本武尊を非常に愛したと言います。

数年後

東国の鄙(ひな)の国が反乱を起こしました。

日本武尊は東国に討伐に行くことになりました。
数々の戦いを経て、都への帰路についた日本武尊でしたが
伊勢国の能褒野(のぼの)で力尽き、30歳で亡くなりました。

知らせを受け、ひどく悲しんだ天皇は日本武尊を
能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬りました。

すると
日本武尊は白鳥となって陵から出て、倭国に向かって飛んで行きました。
天皇が使者に白鳥を負わせたところ、倭の琴弾原(ことひきはら)
河内の古市邑(ふるいちのむら)に留まったので、それぞれに陵を造りました。

当時の人はこの三つの陵を白鳥陵と呼びました。

日本武尊の子は、のちに、第十四代仲哀(ちゅうあい)天皇として即位します。






皇室系譜に第12代と伝える天皇。『日本書紀』によれば、国風諡号(しごう)は大足彦忍代別(おおたらしひこおしろわけのみこと)。垂仁(すいにん)天皇の第3子で、母は日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)である。景行天皇元年に即位して播磨稲日大郎姫(はりまのいなびのおおいらつめ)(『古事記』は父を吉備臣(きびのおみ)らの祖若建吉備津日子(わかたけきびつひこ)とする)を皇后とし、日本武尊(やまとたけるのみこと)をもうけたが、同52年に皇后が没したため、妃の一人で皇太子稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)(成務(せいむ)天皇)の生母八坂入彦皇子(やさかいりひこのみこ)の女(むすめ)八坂入媛(やさかいりひめ)を皇后にたてた。この間、同4年に纏向(まきむく)(奈良県桜井市穴師(あなし))の日代宮(ひしろのみや)に都を営み、同12年より19年まで九州に遠征して熊襲(くまそ)を平定し、日本武尊に命じて同27年にふたたび熊襲を、同40年に東方の蝦夷(えみし)を討伐させた。さらに同56年には彦狭嶋王(ひこさしまのみこ)の子御諸別(みもろわけ)王を用いて東国経略に成功した。そして同58年、近江(おうみ)国の志賀(しが)(滋賀県滋賀郡・大津市)の高穴穂宮(たかあなほのみや)に移り、在位60年、106歳(一説に143歳、『古事記』では137歳)で没し、山辺道上陵(やまのべのみちのかみのみさざき)に葬られたという。また皇子女多く、『古事記』は77子を諸国に封じたと伝えるが、これは熊襲・蝦夷征討伝承とともに、大和(やまと)王権成立期の国内征服の記憶が伝説化されたものとみなされる。

[星野良作]


















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