2023年4月11日火曜日

楠木正成について












 楠木正成



楠木正行の会


大阪府HP


刀剣ワールド


楠木正成辞書


「産経新聞 楠木正成の心を読み解く」

楠木正成(まさしげ)が今も人気を集める要因には、忠臣ということ以外に、戦上手(いくさじょうず)ぶりがある。

鎌倉幕府を相手にした倒幕戦で、その戦上手を支えたのは築城と籠城戦の巧みさだ。

騎馬による弓合戦を表芸にし、土塁をめぐらせた館を攻める程度の籠城戦しか経験のなかった鎌倉武士にとっては、正成の籠城戦は初めて経験する先進的な戦だった。

 〈己れが館(たち)の上なる赤坂山に城郭を構へ、五百余騎にて楯籠(たてご)もる〉

 『太平記』は、正成の最初の籠城戦をそう書く。赤坂山の城郭とは、現大阪府千早赤阪村にあった下赤坂城のことである。その様子は次のようなものだった。

 〈はかばかしく堀なんども掘らず、ただ塀一重(ひとえ)塗りて、方(ほう)一、二町には過ぎじと覚えたるその中に、櫓(やぐら)二、三十掻(か)き並べたり〉

 方は、四角形の一辺を表し、一町は約109メートル。城は長辺部分でも最大約220メートルということになる。そこに急造の櫓を密集して建てていたのだ。

 しかし、寄せ手は30万騎という大軍である。

小さな山城を前にした心理を『太平記』はこう記す。

 〈楠が一日怺(こら)へよかし。分捕高名(ぶんどりこうみょう)して恩賞に預からんと、思はぬ者はなし〉

 城は一日も保てないだろうから、さっさと手柄を立てようと皆が思ったというのである。

が、山城は堀はなくても騎馬武者の出足を鈍らせるには十分だった。

塀の間際で勢いを失ったところで正成は、城内に籠めていた優秀な弓の射手200人に一斉射撃させ、そして連射させた。

幕府勢はたちまち、1千人余りの死傷者を出して退却した。

正成は城外に300騎を配置していた。その勢を退却して一息つく幕府勢に密集隊形で攻めかからせ、同時に城の200騎も討って出て挟撃戦で大勝した。

 正成が、下赤坂城の2年後に築城した上赤坂城は、山城としてさらに大きく進化する。

その様子を『太平記』はこう記す。

 〈三方は、岸高くして屏風(びょうぶ)を立てたるが如し。南一方ばかりこそ、少し平地につきて細きを、広さ深さ十四、五丈に掘り切つて、岸の額に塀を塗り、上に櫓をかき並べ〉

 東西と北は、人馬を寄せ付けない垂直の山壁で、南の平地には広さと深さが45メートル近くある堀と塀、櫓をつくった城だったというのである。そこを攻める幕府勢は連日、5、6千人の死傷者を出した。

正成は、こうした山城を主なものだけでも10カ所以上築いた。「赤坂城塞群(あかさかじょうさいぐん)」と総称される正成の城で興味深いのはその配置だ。坊領山(ぼうりょうやま)城は、上赤坂城へ向かうルートと枡形(ますがた)城につながるルートの拠点になっている。猫路山(ねこじやま)城には幕府勢が攻め寄せるだろう北に、地面を掘って切り通した「堀切」がある。幕府の攻撃で窮地に陥れば、次々と城を捨て、金剛山を経由して奈良方面などへ逃げていく意図が見てとれる。






淀屋橋ご案内