2022年1月17日月曜日

美具久留御魂神社

2022年初の富田林NWは氏神様の美具久留美魂神社に行って来ました。








喜志の宮さんとして親しまれている、宮さんです。

入口の鳥居は旧170号線(大阪府道23号線)沿いにあります。

 そこから外環状線に向かって進むと美具久留美魂神社があります。

鳥居の後ろは、森ですが気持ち良く美しい。

「大阪みどりの百選」に選ばれているそうです。

敷地6700坪

美具久留美御魂大神を祀っています。

神様は大国主命(おおくにぬしのみこと)

因幡の白兎の神話でお馴染みの出雲大社の神様です。

                      


二つ目の鳥居を過ぎるて下拝殿
下拝殿でお詣りをしました。
2礼4拍手2礼


上拝殿に登って行きますと
5つの社と本殿があります。

左殿に、天水分神(あめのみくまりのかみ)
弥都波酒売命(みずはのめのみこと)
右殿に、
国水分神(くにのみくまりのかみ)と
祓(はらえ)の1柱
須勢理比売命(すせりひめのみこと)

祓(はらえ)というのは神話で作った神様と
されているイザナギが黄泉(よみ)国から
帰還した際に、穢(けが)れを払うために
禊(みさぎ)をおこない、
その際に生まれた神々のことです。

神様のことは、ひとりふたりではなく、1柱(はしら)2柱(はしら)と数えます。


本殿は眞名井ケ原(まないがはら)という山の中腹に

あります。その手前が上拝殿、階段の下に下拝殿を配置。

本殿が鎮座する山そのものが御神体とされています。

喜志の宮さんの歴史は古く、紀元前88年ごろの時代にさかのぼります。

10代天皇・崇神(すじん)の時に、この場所に大蛇が頻繁に出没した事に由来します。

実際に天皇がそれを視察したときに、天皇が

「これは大国主(おおくにぬし)の荒魂(あらたま)である」

と言われたそうです。

その後、丹波氷上(ひかみ)にいた氷香戸辺(ひかとべ)という

首長の子どもに、突然信託(しんたく:神のお告げ)が下りました。

それを聞いた天皇が「やはりこれは大国主を祀る必要がある」と考え、

皇太子を使わせてこの場所に大国主を祀らせました。


下拝殿

歴代天皇の崇敬が厚い神社として、850年の時点で、

神階は「従五位上」と呼ばれる地位に進んだと記録があります。

927年に成立した延喜式では河内国石川郡に

「美久留御魂神社」が存在したという記録があります。

下拝殿の奥に70段の大階段があり、

この階段を登れば上拝殿に参拝できます。


中世には、楠木正成が新しい社殿を作りました。

豊臣秀吉が和歌山の根来寺攻めを行った際に発生した兵火でその社殿は焼け落ちます。

    社殿は江戸時代1660年に再建されます。

      明治時代に制定された「近代社格制度」で郷社という位置付けになります。

                下拝殿には、神輿が飾られていました。

     喜志の宮さんの山は御神体です。

そして、美具久留御魂神社裏古墳群となっています。

この古墳群は、古墳時代前期の前方後円墳1基と

古墳時代後期の円墳3基から構成されています。

1930年頃に発掘調査が行われており

その際に円筒埴輪と銅鏡が出土しました。


鳥居は東にある「二上山」を向いています。

二上山のさらに先には、

奈良盆地を抜けた先には、

三輪山があります。

三輪山も御神体として祀られています。

日本最古とも伝わる大神神社(おおみわじんじゃ)があります。


山そのものをご神体としているのは、この二つと言われています。

東西に直線上に、山そのものをご神体とした二つの神社

歴史的なロマンを感じます。





稲荷神社の西、神体山を約30メートル登ると「なみだれの梅」の碑があります。
1世紀後半、左衛門尉(さえもんのじょう)の命で出て行った神官・青谷正祐は
都の女性に慕われるがそれを知った彼は、職を辞して神社に戻りました。
彼を想い都から、下ってきた彼女は、日毎夜毎、彼を想い社の傍に立ち尽くしますが、
愛は受け入れられず、そこに果ててしまいます。
女の純情を憐れんだ正祐は亡骸を篤く葬り、そこに梅を植えました。
悲恋に同情した梅が、涙を落としたと言われています。
梅樹は代々、受け継がれ、上拝殿の東には、
「なみだれのさめざめとのみ思ひ寝の夢のうつつの暁の空」
と後奈良天皇が詠まれた碑が建っています。
「恋しい人を慕って、さめざめと涙を流した事であろうが、
泣き疲れていつしか眠ってしまった。ふと目覚めてまだ夢心地の時、
目に入った東の空はもうわずかに白みはじめていたことであった。」
と解されています。







淀屋橋ご案内