上赤坂城は、金剛山の支脈の一つ
西北にのびる標高349.5mの峰にあります。
この城は別名 楠木本城と呼び
切山城 小野田城 とも言われています。
城の北側は、足谷川
東は井戸の谷
西は城の谷
という三方を深い谷に囲まれています。
南一方のみが、憔路(しょうろ)で山づたいに金剛山へと続いています。
北側の城の谷から登る城坂(ジョンザカ)が大手口です。
二の丸(東の城)の西側を通り、茶碗原を経て坂を登ると本丸にでます。
茶碗原は陣屋跡で、炊事場のあったところと言われています。
石臼や土器が出土しています。
本丸は平坦な台地で千畳敷とも呼ばれ、東・西・北の展望が開け、
六甲山や淡路島まで見渡すことができます。
点在する出城との連絡が簡単に取れたようです。
城郭は本丸と二の丸の二つの郭を核に、それぞれ大手方面の尾根に段下りに蓮郭してます。
茶碗原からも谷に向かって曲輪を重ねていますが
みかん園として開墾されたこともあり
今は不明瞭になっています。
それぞれの尾根は掘り切られ、
特に大手道の通る「そろばん橋」は二重堀切で土橋状になっています。
元は土橋がなかったのかもしれません。
これらの堀切は相互に連ねていくとほぼ等高の防御ラインを形成します。
1332年(元弘2年)秋の楠木正成の第二次挙兵は、
千早城とともに上赤坂城に籠城し戦われましたが、
鎌倉幕府軍に包囲され翌年2月に
上赤坂城が落城
千早城だけが耐えてついに守り抜きました。
健武政権の崩壊
正成の死
後
1347年(貞和3年)
子の正行を中心に南軍が東條谷に集結し北進
翌年正月 四条畷の戦いで正行が敗死
弟 正義が赤阪に退いて1年6ヶ月間
高師泰らの北軍と対峙しました。
この時が、赤坂城塞軍整備のピークであった
1359年(正平14年)
赤阪一帯が再び攻防の拠点となり
翌年、上赤坂城が落城しました。(1360年)
守り手は最後の詰めとなる金剛山頂との連絡を軸に
城塞の網をはりめぐらし、攻め手はそれと競合しつつ向城の網をはって
上赤坂城に攻撃を集中するというのが戦術の基本で
正成の挙兵時以来、この形を踏襲して城塞群が発達しました
この城は立地上、金剛山麓の城塞群の中枢という面だけでなく
東條谷一帯の地域支配の拠点として典型的な国人居城の特徴を有しています。
南軍の拠点という歴史的背景がなくなっても以後も使われたと思われます。
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