恩智城
楠木八臣
「恩智左近満一」
恩智城は「楠公八臣」のひとりに数えられた恩智左近満一によって築かれた城です。 左近は楠木正成に従って千早城の籠城戦や飯盛山城攻めにも参陣して活躍しましたが、1348年(貞和4年・正平3年)の「四条畷の戦い」で正成の嫡男である楠木正行とともに討死したたと伝わります。
〈八尾顕幸は楠氏八臣の一人である。所謂(いわゆる)八臣とは和田和泉守正遠、安満了願、恩地左近満一、湯浅孫六入道定仏、八尾別当顕幸、宇佐見河内守正高、志貴右衛門朝氏、神宮寺太郎左衛門正師の八人である〉(八臣の読み方は諸説ある)
昭和9年、同寺が発行した冊子『八尾顕幸』にこんな記事がある。正成と度々戦った顕幸が、正成の重臣になったというのだ。近世初期の成立といわれる『太平記評判秘伝理尽鈔』は、その事情を伝えている。
顕幸の実力を知っている正成は、官位を与えて味方につけるように大塔宮(おおとうのみや)に進言した。宮は、正成が先に味方をしているのなら味方になれないとする顕幸に、「正成の存亡は知らない」と伝え、味方につけた。正成は後で策をわびたが、顕幸は「うまく謀(はか)ったな」と笑って受けながした-。
負けるといさぎよく仲間になる。義経と弁慶の関係にも似ている。忠臣である一方でアウトローでもある正成に、精神的よりどころを求める人は多かったと指摘する研究もある。正成になれなくても、それを支える人物に自分を重ねる人もいるなかで、物語は受け入れられていったのではないか」
神戸大大学院の樋口大祐(だいすけ)教授はそう話す。
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「顕幸は正成をめぐる話をおもしろくするために、作られた人物ではないか」
八尾市立歴史民俗資料館の小谷利明館長はそう話す。実在を伝える唯一の史跡が同寺の墓しかなく、寺の古文書約800点を調査しても顕幸に関する記述が出てこないためだ。
それでも墓を守る同寺の片岡英悟・副住職は言う。
「寺としてずっとお守りしている。いい世の中にしようと戦ってきた先人あっての今の世の中ですから」
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◆常光寺 臨済宗南禅寺派の寺院。本尊の木造地蔵菩薩(じぞうぼさつ)像、本堂、阿弥陀堂、行者堂などが八尾市の指定文化財となっている。
寺伝によると、木造地蔵菩薩像は平安時代初期、参議小野篁(たかむら)が六道の辻で衆生を救う地蔵に会って作ったという。地蔵菩薩への幅広い信仰を集め、足利義満の祖母も帰依するなど、京都の貴族や武家と関わる寺院となった。義満の筆と伝えられる「常光寺」と書かれた扁額(へんがく)も残されている。
河内音頭発祥の地とされ、流し節正調河内音頭が披露される地蔵盆踊りでも知られる。
御智城趾
御智神社兎龍門
壺井八幡宮
椿