2022年3月8日火曜日

小枝橋





京都・大阪での会津ゆかりの地にまつわる話が続いています。今回は、戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見の戦いの跡地を訪ねたときのお話を。京都盆地の南に位置する伏見は、豊臣秀吉ゆかりの伏見城の城下町として、江戸時代になると京都・大阪・奈良を結ぶ、水運・陸運の要衝として栄え、幕末期には、多くの事件の舞台となりました。

鳥羽伏見の戦い勃発地
鳥羽伏見の戦いの発火点となったのが、城南宮の表参道西を通る鳥羽街道が鴨川に架かる小枝橋です。


大政奉還し大坂城にいた徳川慶喜(1837~1913)は薩摩を討つため上洛を決意し,慶応4(1868)年正月3日,幕府軍本隊を鳥羽街道と伏見街道に分けて京都に進軍した。鳥羽街道を北上する幕府軍と,これを阻止しようと竹田・城南宮周辺に布陣した官軍は,この地小枝橋で衝突した。幕府軍1万5千人と官軍6千人の激しい戦いであった。この石碑は,翌年夏まで続いた戊辰戦争の発端となった鳥羽伏見戦の勃発地を示すものである。



鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)勃発の地                  小枝橋      小枝橋は、慶応四年(一八六八)正月三日に   京都を目指す幕府軍とそれを阻止しようとする   新政府軍が衝突し、翌年の夏まで続いた戊辰戦争の   発端となった鳥羽伏見の戦いが始まったところです。   大政奉還し大阪城にいた徳川十五代将軍慶喜は   薩摩を討つため上洛を決意します。   大阪から淀川を上がって竹田街道の京橋で上陸した   先遣隊に続き、幕府軍本隊が鳥羽街道と伏見街道に   分かれて京都に進軍しようとします。   これを阻止しようとする新政府軍は、竹田、城南宮   周辺に布陣し、鳥羽街道を北上する幕府軍と   ここ小枝橋で衝突します。   「将軍様が勅命で京に上がるのだから通せ」   という幕府軍と、   「勅命ありとは聞いていない、通せない」   という新政府軍の押し問答が続き、幕府軍が強行突破   しようとすると、薩摩藩がア-ムストロング砲   を発射、この砲声を合図に幕府軍一万五千人と   新政府軍六千人の激しい戦いが始まります。      こうして始まった戊辰戦争は、翌年の函館五稜郭の   戦いまで続いて新政府軍が勝利します。   新しい時代「明治」、ここ伏見から始まったとも   いえます。[南最下段]贈   京都伏見ライオンズクラブ         平成十年七月建立調 査2002年3月4日備 考



1868年、新政府軍と旧幕府軍が初めて武力衝突したのが、「鳥羽伏見の戦い」です。その後の政権にどんな影響を与えたのでしょうか。この記事では、開戦までの背景と原因、戦時中の状況、戦後の影響、そして理解を深めるための本もあわせてご紹介していきます。


鳥羽伏見の戦いとは。「戊辰戦争」の最初の戦い

1868年の1月3日から6日、薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍と、15代将軍徳川慶喜を擁する旧幕府軍が戦いました。これを「鳥羽伏見の戦い」といい、1869年6月に終結する「戊辰戦争」の初戦になっています。

新政府軍の兵力が4000~5000人、旧幕府軍の兵力が約15000人だったといわれています。

慶喜は病と称して実際には参戦せず、大阪城に留まりました。 
 


なぜ鳥羽伏見の戦いは起こったのか。背景と原因をわかりやすく説明。

1854年の開国以来、薩摩藩と長州藩は積極的な攘夷運動をしていました。その一方で、1863年の薩英戦争(薩摩藩とイギリスの戦い)や、下関戦争(長州藩とアメリカ・イギリス・フランス・オランダの戦い)を経て、日本と諸外国の国力の差を思い知ります。

その後は海外の技術や武器を積極的に取り入れて、倒幕運動へと舵取りを変えていきました。

これに対して幕府は、「長州征討」と銘打って大軍を挙げて武力侵攻しましたが、近代兵器を取り入れていた長州藩に惨敗。これにより、反幕府勢力の勢いが増していきます。

1867年、薩長両藩は武力倒幕の方針を固め、公家の岩倉具視の画策で「討幕の密勅」を手に入れました。実はこれ、朝廷も天皇も関係していない偽の勅書だったのですが、この情報を得ていた将軍・徳川慶喜は、翌日に大政奉還。国政を朝廷に返し、受理されました。

慶喜は武力倒幕を避けるため、徳川の勢力を保ったまま、天皇のもとで要職に就こうとしたのです。

大政奉還で幕府がなくなったことにより、倒幕の大義名分が消えたものの、政治自体は旧幕府時代のままでした。薩長両藩としては、これでは意味がありません。

薩摩藩の西郷隆盛は浪人を募り、500人の浪士隊を組織して江戸で挑発行為を始めました。勤皇活動費と称して強盗や略奪をくり返し、捕吏に追われると薩摩藩邸に逃げ込むのです。あげくの果てに、庄内藩の警備屯所に銃弾を撃ち込みました。

すると1867年12月、庄内藩が主力になって、今度は江戸の薩摩藩邸の焼き討ちをおこないます。

このころ慶喜は、新議会で中心的な役割を担うため大坂城にいて、穏便に政権移行を図ろうとしていました。ところが薩摩藩邸焼き討ちの知らせに一気に場が好戦気分になり、薩摩藩を討とうとする機運が高まるのです。

こうして、慶喜を擁した旧幕府軍と、薩摩藩を中心とした新政府軍の戦争が避けられなくなり、両軍とも京都に向かって兵をあげ、鳥羽伏見の戦いが始まりました。

鳥羽伏見の戦いの概要。錦の御旗に、徳川慶喜は逃亡……。

【戦闘開始】

戦端が開かれたのは、鳥羽街道でした。1868年1月3日、旧幕府軍の先鋒が薩摩軍に遭遇し、それでも強引に道を進もうとしたところ、薩摩軍から一斉掃射を浴びたのです。

この時旧幕府軍は、先頭に京都見廻組、次に歩兵、最後に砲兵の順で雑然と並んでいましたが、これに対し薩摩軍は、洋装で隊列を組み、銃も装填、後方には大砲を据え、街道脇には小銃隊をひそませていました。

戦いにおける姿勢の差が勝負を決め、薩摩軍が旧幕府兵を潰走させます。

一方、鳥羽での砲声を聞き、伏見でも戦闘が始まりました。ここでも薩長が連合した新政府軍は、近代的な戦闘と圧倒的な砲火をもって旧幕府軍を圧倒し、勝利をおさめます。

【錦の御旗】

1月4日、新政府軍は、あらかじめ用意していた「錦の御旗(にしきのみはた)」を掲げます。これは朝廷の軍であることを表す旗で、天皇が認めた証になり、敵対する者は賊軍とみなされてしまうのです。

天皇の象徴に向けて攻撃をしなければならなくなった旧幕府軍の士気は、一気に下がります。

さらにこの知らせに驚愕したのが、慶喜です。彼の母は皇族で、しかも天皇崇拝が強い水戸徳川家の出身でした。

この日旧幕府軍は大敗し、大坂城まで撤退することになりました。

【慶喜の逃亡】

1月6日、出馬を求められた慶喜は、将兵たちに「さらば、これより打ち立つべし。皆々、その用意すべし」と答えますが、なんとこの晩逃亡します。大将を失った旧幕府軍は、大敗して鳥羽伏見の戦いを終えました。
 

旧幕府軍の敗因は?

幕末に詳しい歴史家の明田鉄男が作成した『幕末維新全殉難者名鑑』によると、この戦いで新政府軍の死者は110人、旧幕府軍は280人にのぼったそうです。

また、戊辰戦争に旧幕府軍側で参加した山川健次郎が監修した『会津戊辰戦史』では、旧幕府軍の敗因を3つ述べています。

1つ目は統率する人がおらず、各自が勝手に戦っていたこと。2つ目は、狭い道に大軍を進めたため大混雑で命令が徹底せず、烏合の衆と化したこと。そして3つ目は、京都情勢に明るくなく、戦わずに京都に行けると思っていたことだそうです。

鳥羽伏見の戦いの影響

この戦いの後、江戸城が無血開城され、幕府の力はなくなります。しかし争い自体は、1869年6月に戊辰戦争が終結するまで続きました。

新政府は、旧幕府勢力を完全になくすことには成功しましたが、戦後、不要になった士族による反乱が起きてしまいます。戊辰戦争をともに戦った仲間同士が争うことになりました。

この内乱は1877年に西南戦争が終結するまで続くことになります。



 

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